HYBRIDS_vol17
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3 宝石のよう輝く海面に、まるでオブジェのように島々が浮かぶ。世界初の旅行会社を設立した英国のトマス・クックが、「湖のほとんどすべてを訪れているが、瀬戸内海はそれらのどれよりも素晴らしい」と絶賛した瀬戸内海国立公園。点在する島の数は、約3,000。一見穏やかそうに見える海は、潮の干満差が大きく、潮流が極めて速い。あの「鳴門の渦潮」を見れば一目瞭然である。 この瀬戸内海の中でも、特に海が狭くなる岡山県と香川県の間の海域「備讃瀬戸」は、古くから瀬戸内海航路の要衝を占め、常に歴史の舞台となってきた。その備讃瀬戸に点在する28の島々が、塩飽諸島。名前の由来を、「塩焼く」とも「潮湧く」とも伝えられる、今回の『HYBRIDS』の舞台である。 塩飽の海を知るためには、少し歴史を遡る必要がある。塩飽という名が最初に文献に登場するのは、1156(保元元)年のこと。「藤原忠通書状案」には、塩飽が摂関家である藤原忠通家の家領荘園の一つであったことが記されている。その後、しばしば文献に登場するようになるのは、南北朝時代。塩飽の島人たちが、海上勢力として力を発揮するようになってからだ。さらに戦国時代になると、中国、四国の領主がその勢力を拡大しようとするたびに、必ず塩飽の水軍が利用された。潮流の速い備讃瀬戸を船で航行するには高度な技術が必要で、その技術を塩飽の島人が有していたからに他ならない。島に降り立ち、耳を澄ます。遠くに、戦国時代の鬨きの声が聞こえてくる。 瀬戸内の水軍と言えば、村上水軍が有名だが、村上水軍が権力に媚びずに毛利氏に味方したのとは対照的に、塩飽水軍は常により強いものを選択して権力者に重宝され、戦国乱世の時代を巧みに生き抜いたのである。 1578(天正6)年、毛利氏が石山本願寺を援助して織田信長と敵対した際には、塩飽水軍が兵糧米1000俵を積んだ船を攻撃して糧米を奪い、毛利軍の計画を頓挫させた。このために信長は、「触れ掛り」と称する海上の特権を示す朱印状を塩飽水軍に与えている。一方、豊臣秀吉が1589(天正17)年10月に北条氏討伐の軍令を出し、中国、四国、九州の船舶に糧米を積んで小田原に向かった際には、台風に遭ってほとんどの船が鳥羽の海に避難するなか、塩飽水軍だけは台風に奮然と立ち向かい、予定の期日に糧米を小田原に届けたのだという。感心した秀吉は、塩飽の土地1250石を船方650人に領地させるという朱印状を下している。徳川家康もまた、塩飽水軍に朱印状を送った一人である。記された日付は関ヶ原の戦いのわずか13日後。家康がいかに塩飽の海運力を高く評価し、依存していたかがわかる。家康の朱印状によって650人の島人は改めて徳川幕府の御用船方となり、塩飽諸島1250石を領することとなる。船方たちは「人名」を名乗り、どの大名にも属さず独自の自治制度を確立して自治を行った。塩飽水軍が勤番所を所有していたのはそのためである。しわくしょとうびさんせとにんみょう巻頭特集春の瀬戸内、塩飽の海。AICHI TOYOTANEWSAICHI TOYOTACAR LINEUPHYBRIDS見聞録チーフエンジニアが語る新型プリウス開発秘話【第5話】HYBRIDS SELECT広大な海も、雄大な山も。ワンショットで360°すべてを撮影。自由に動かす楽しさもある。PRIUS CUP 全国大会3連覇特別企画プリウスカップ全国大会3連覇の軌跡【最終話】と

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